昨日、本市の予算委員会の各分科会がとりあえず閉会しました。
私は分科会の委員長として、円滑な議事進行を預かる立場として、今回は「委員会(分科会)における時間」について、私なりの違和感と、あるべき姿への考えを整理してみたいと思います。
「17時」という枠と、膨らんだ持ち時間
私の分科会では、各委員さんの公平性を担保するため、持ち時間を「答弁込みで一人50分」ととし、全体の運営目標として「17時までに閉会」を共有しています。(17時閉会から逆算したら委員さん一人の持ち時間が50分ということです。)
しかし、今回の分科会では、ある委員さんが2日間にわたり、割り当て時間を超える質疑を行われました。
1日目終了時に委員長として進行管理を促しましたが、その後返ってきたのは「17時までに終われば問題ない」「他の委員が余らせた時間を使った」「他の委員会でも時間超えている」という理屈でした。
他の委員会のことは、そこの委員長が司っているのでそれは置いといて…笑
確かに時間は余っていましたし、17時にも間に合いました。
しかし、質疑の内容は、資料に明記されている事実関係の再確認や、自身の思いを長時間語る姿が目立つなど、私は少し違和感を抱きました。
「記録(アーカイブ)」への使命感と、その手法への疑問
どの政党・会派の団体にも言える事ですが、その委員さんが所属される団体にも、独自の強い信念があります。
「住民の苦難軽減」を掲げ、行政を厳しくチェックする。
そのやり取りを議事録に刻むことは、単なる記録ではなく、後の活動報告や政策提言の根拠となる「闘争の記録」という側面があると思います。それは、議会における一つの大切な役割ですね。
その使命感自体は尊重します。
しかし、気になるのはその「手法」です。
その団体が指針とする思想には、本来、物事を論理的・科学的に分析する姿勢が含まれているはずです。
しかし、分科会の現場で行われていたのは、配布資料をなぞるような事実確認や、他者の質疑を繰り返すといった、重複した質疑も多く見受けられました。
限られた分科会の時間を「すでにわかっていることの確認」に費やすことは、今のスピード感が求められる社会において、果たして合理的と言えるでしょうか…。
「割くべき労力」をどこに向けるか
私は、「質疑時間が長くなること」自体を否定しているわけではありません。
むしろ、以下のような場合は、持ち時間を超えてでも議論を尽くすべき時もあると考えています。(極力超えない努力は必要でしょうけど)
- 深掘りされた本質的な議論:
理事者(行政側)との間で活発なやり取りが展開され、新しい課題や解決策が見えてくるような場面。 - 事前の徹底した下調べ:
委員会や分科会が始まる前に、平場(担当部署への事前聞き取りなど)で事実関係を整理し、その上で「委員会室でしかできないような議論」に踏み込んでいる場合。
実際、同じ会派の委員さんの中には、事前に理事者と調整し、論点を絞り込んだ上で、鋭く深い議論を展開される方がいます。
彼らは限られた時間を最大限に効果的に使うため、見えないところで膨大な準備という努力と労力を惜しんでいないでしょう。
その結果として議論が白熱し、時間がオーバーするのであれば、それは私は「有意義な時間」であると感じます。
一方で、事前の確認を後回しにし、委員会の時間を「自分の記録作り」のために浪費し、他者の効率化によって生まれた「余白」を埋める。
これは、本当の意味での「市民のための仕事」と言えるのでしょうか…。
「余った時間(?)」は誰のものか
自戒も含めて…💦
「余っているから、自分が使っていい」のではありません。
他の委員さんが準備を尽くし、質疑を簡潔にまとめたことで生まれた時間は、本来「行政コストの削減(職員さんの早期退庁など)」や「質疑の中で発生する不測の事態への備え」とされるべきではないかと思います。
議場を「自説の発表の場」にする前に、徹底した下調べと準備で「議論を深める場」にアップデートするほうが、とても意義深いと思います。
形式的な「17時」という枠を埋めることではなく、その中身の密度で勝負する。
そんな建設的でスマートな委員会であってほしいと思いますし、私がまた委員長を務める事になるのであれば、これからも目指していきたいと思います。